ボラ仲間2012/11/01 21:14

 今日は出席が6名。

 ボラ仲間の○氏は80歳を超えているが、常にアンテナを張って活動に役立つ情報を私たちに提供してくれる。

 今日もある講演会のパンフレットを持ってきてくれた。

 ありがとうの言葉と共に行動力に感心する声が上がった。

 「いや、いや、女房に追い立てられて家におられんのですよ」と笑う。

 毎朝、食事をしていると奥様がいう。
 
 「今日はどちらへお出かけですか」
 「それでは、お昼はいりませんね」
 「夕食はどうされますか」

 グループの女性五人は笑いだす。
誰もが身に覚えのあるセリフだから。

 親睦の機会はほとんどないが、時の流れは面白い。
 短い振り返りの中で時折 冗談が出るほど、お互いの間に親しみが育っているのだな~と思った。

原発から60キロ地点で2012/11/06 19:54

 福島では地震のあった昨年3/11から7/11まで居住していた人を対象にその間の放射線量を測る県民調査があったそうだ。その調査結果が娘に届いた。

 原発から60キロに住んでいる娘の積算放射線量は四カ月で1・1ミリシーベルトだった。

 放射線量の限度を国際機関ICRDが年間一ミリシーベルトとしており、日本でもその勧告に基づいていたが、事故後20ミリシーベルトに変更している。

 ガソリンがない状態で娘は徒歩で30分ほどの職場を往復していた。
 私も3月13日からひと月ほど福島に滞在したので調査対象になる。
 調査には参加はしなかったが戸外で過ごした時間は娘より格段に長い。
 食料買い出しで、二時間の行列に並んでいたから。


 3・11の地震の後、一人暮らしの私を心配する子供たちの勧めで、娘に連れられて3月13日福島に行った。

 すぐ帰るつもりで常備薬を持たなかった。
 翌14日 内科医を探して歩いていた。ケータイが鳴って、
 「今、何をしているの?」と息子の声、
 「お医者さんを探してる」と言ったら「すぐ家に入りなさい、放射能の心配があるから」という。
 「え???薬を飲まないより危険なことなの?」と頓珍漢な問いをした私。

 この日原発で水素爆発があり、続いてメルトダウンなどの事故が続いていたのだが公に発表されたのは後々のことである。

 テレビでは一般的な放射性物質を避ける心得として、
〇外出を控える。やむを得ない時は車を利用する。
〇外出時は帽子、マスク、長袖肌を露出しない。
 雨、雪に当たらない。
 外出から帰ったら、玄関先で衣服を払う。
 手を洗う。うがいをする。
〇室内では窓を開けない。エアコン、換気扇を使わない。
〇洗濯物を外に出さない。


 また、テレビは毎時、福島各地の放射線値を知らせ「高い数値の〇〇村でもただちに健康に影響する値ではありません」と言っていた。

 私たちは律儀に心得を守っていたので窓を閉め切った暮らしは息も詰まるようであったが、60キロも離れていること、さらにより安全な自宅があったから
「まあ、大丈夫だろう」という気持ちもあった。

 玄関先で衣服を払いながら「原子」と「払う」という原始的な行動のギャップを、≪変なの≫と思い、娘は目に見えない敵をキラキラとか色が付いているといいのにと言った。

 今思うと、後だしが多く、本当のことが知らされていなかったと思う。

 私は高齢で放射性線物質を多く浴びたとしても影響がないのだが、買い物の行列には幼児を連れた人もいて子供は帽子もかぶらず無邪気に走り回っていたし、アパートに赤ちゃんの肌着を干しているのも見た。
 正しい情報が遅れたことで、被害を受けた人も多いだろう。


 後になって娘のいる地区でもホットスポットがあり、除染をした。
除染と言っても地面の表面を削り取って幼稚園や学校では校庭の隅にビニールをかけてあり、個人宅では庭の隅に仮置きされているのが現状だ。

 水のこと、空気のこと、食べ物のこと・・・内部被ばくまで考えると問題は大きい。

 原発事故で直接の被害を受けたわけではないが、原発から、60キロ地点での それまでこれっぽちも原発に関心のなかった私のひと月の滞在記。

あのころ2012/11/09 20:45

《空き地の秋》


 数日前、新聞のコラム「河北春秋」に秋田市の記事があった。

 同じ東北内でも 離れた地でふるさとの記事に出会うと、街のたたずまいや人とともに思い出が湧き上がって懐かしい。

 広小路にある書店が閉店するという。書店の名前はないのに、「K書店」とすぐに分かった。

 私が高校の頃出来た書店で、その前からあった「M書店」とハシゴで学校帰りよく立ち寄った。
 本を買う小遣いは、なかったが本屋は好きだった^^;;

 広小路は駅からの通りで、登校のときはいつも早足で歩いていた。
高校は駅から遠く、手提げかばんを持って40分も走るように歩かなければ遅刻した。 汽車から降りた同校の女学生は誰もが競争のように歩いていた。

 通学には随分と時間がかかった。
朝6時半に家を出て田圃道を歩いて40分で駅。そこから汽車で五つ駅を通って秋田市までの通学。

 う~む、これじゃ、疲れて勉強出来ないな~
それ故(^^;;) 教室では肩身の狭い生徒だったが、今も歩くのが好きなのはそのころの名残りかも^^。

 高校を出たのは昭和32年。娯楽といえば図書室から本を借りて読んだり、時々は放課後、学校から割引券を購入して映画を見に行ったりがせいぜいだった。

 あ、そうだ。川反三丁目に「いとう」というアイスキャンディ屋さんがあって、友達と食べたあずきアイスが滅法うまかった。たしか、30円だったような・・・

 新聞のコラムには映画館が軒を連ねていた秋田市の「有楽町」(^^)で一館だけ残っていたのが12月で閉館するとあった。
 およそ60年も経っているんだな~~

 青春前期、迷いや、悩みも多かったはずなのに、振り返れば 若さにあふれ、輝いている思い出だけが見える。

お金が合わない2012/11/11 21:54

会食付きの会合があった。
会場に着いたら幹事の○さんが「eさん、集金お願いね」という。

集金くらいだったらばあにも出来るだろうと、慌ててコートを脱いで座った。
 「16人」の出席で2000円の会費、簡単、簡単。
名前を書きながら出席者から2000円をいただいた。

 終わって名前を確かめ、お金を数えた。

アリャ、15名、30,000円しかない。

2,3度確かめて、ようやく気付いた。

ご自分が未納でした!!  トホホの内緒話。

転ばぬように2012/11/15 17:06

 この前姉を訪ねたらマスクをしていたので風邪かと思ったら洗濯物を取り込み家に入ろうとしてちょっとした段差に躓いて転んだそうだ。

 「見て!」とマスクをずらしたら鼻の下が紫になっていた。打撲だったらしい。
 チャップリンの髭のようで笑ってしまった。
 痛みも傷もないので一緒に笑っていたが長く続けているプールにマスクは付けていけないから休んでいると困っていた。

 昨日は町内のちょっとしたバス旅行で何年振りかで参加した。
30年も暮らしているのに、名前はおろか顔も知らない人が多い。
「しばらく~」と声をかけてくれたAさんが
 転んで足首を骨折して三カ月も不自由をしたと言う。

 場所は寝室、敷いた布団の端っこに躓いて転倒したそうだ。
中高年にはちょっとしたことで「ころぶ」が多いのだなあと思った。
 ボラの仲間でも二人骨折があった。

 旅行が終わり、バスを降りて近所の人たち四人で歩いてきたら、隣のご主人も柿を取ろうとして脚立から落ち、右腕を骨折して今も車の運転が出来ずにいるのだと言う。

 
 私の場合、外出時は常に徒歩だし、粗忽者だから転倒の確率は高い。
 運動神経も鈍いからバランスを崩したら「ドデッ!」といきそう^^;;

 これからの季節は道路が凍ったり雪だったり危ない。
用心に用心を重ねて歩くとしよう。

大往生2012/11/20 19:25

 12月が近づいて、喪中欠礼のはがきが届く頃となった。

 高校時代の〇さんからも頂き、お姑さんが3月に104歳で亡くなられたと知った。

 「まあ!!!」

 二年前、〇さんを訪ねた時、孫、ひ孫に囲まれてベッドでVサインをしているおかあさんの写真が飾ってあった。

 〇さんに電話をかけた。
 お悔やみの前に思わず「素晴らしい一生だったわね~」と言ってしまった。
 〇さんは「そうね、天寿を全うした感じ」と答えた。

 今の時代に自宅で最期を迎えられ、3人の子供にそれぞれの孫がいて、104年の間 逆縁に遭うこともなく各家族と円満に交流して過ごしたという。

 おかあさんは長男の所で老後は過ごされたが、私が故郷にいるころは〇さんの家はわりと近かったのでよく遊びに行った。おかあさんとも何回か会っている。

 高校で知り合った〇さんは明るく可愛い人で誰でもお嫁さんにほしくなるような人。
 ご主人は小・中学の同級生で結婚する時〇さんは「おかあさんが素晴らしい人だから結婚を決めた」と言っていた。
 実際、一度もお姑さんに関する愚痴を聞いたことがない。

 おかあさんの経歴は聞いたこともなかったが、電話で初めて知った。
東北大付属看護学校を卒業後、県立病院の看護婦に。その後助産婦として地域で長く働いた。

 誠実に生き切った104年の人生の中には苦労も、努力もあったであろう。
 また、周りもお互いを理解しようと努力すことのできる人たちだったのだろう。

 「おばあちゃん、バイバイ。」と孫や大勢の家族に囲まれて生を終えられるのは幸せなことだ。

 苦しみ、悲しみのない人生などない。
〇さんも病気や入院などあったが、いつもニコニコと明るく笑っている。
 私の目には〇さんもお姑さんのように確かな足取りで歩いているように見える。

「北のカナリアたち」2012/11/21 19:45

しばらく映画館に行っていないという○さんに誘われて大賛成で「北のカナリアたち」を観てきた。

主演が吉永小百合というだけで他の予備知識はなし、先生と子供たちのほのぼのとした触れ合いの物語かなと漠然と思っていた。
実際はミステリー風の重いテーマの映画だった。
 ウルッとくる場面が何度もあったが、違和感もあった。
同行の〇さんは「よかったね~」と言っていたから若さの違いかな^^;

北の大地の厳しい清冽な景色は文句なしの素晴らしさ。それと子供たちの歌声が澄み切って美しく感動した。



 映画の後でお茶を飲んだ。
おしゃべりの中で新聞の折り込みチラシの話になって

 〇さん「そら、あの坂のところにスーパーがあるでしょ」
 ばあ「ん?隣の団地の?」
 〇「そう、坂を下りると左側に××スーパー手前の右側にあるスーパーはなんだっけ?」

 珍しく、閃いた。
 ばあ「△スーパーのこと?」
 〇さん「そう、そう△スーパーよ!」

 で、めでたく謎が解けたはずが・・・・
〇さんが「あれ?何の話をしていたんだっけ???」
と言ったので、アハハハ・・・・
 スーパーの名前を思い出そうとして考え過ぎて何を話そうとしたのかを忘れてしまったというわけ^^。

今日は珍しく〇さんがボケ役だったが、通常ボケ役は私の専門です^^;;;

 加茂神社のイロハモミジまだまだ見頃です。樹齢200年?


一本の木に赤、黄、緑の葉が重なり合って綺麗

白鳥の沼へ2012/11/24 19:03

 数日前、買い物帰り「くえッ、くえっ!」と聞き覚えのある声がして空をあおいだら白鳥が沼の方角に飛んでいた。

 郊外の田んぼで餌を取ってねぐらの沼に帰るらしい。
飛んでいる大きな姿は立派に見えた。

 11月も終わろうとしているのに今年は一度も沼に行っていない。

 今日3時半ごろ沼の様子が気になって行ってみることにした。
沼には人も白鳥も見えず鴨が忙しげに泳いでいた。

 「少し早すぎたかもな~」とぼんやり水面を眺めていたら
あれ!何処から来たのか白鳥が沼の上にいて間もなく着水した。
 シャッターチャンスも何にもあったものではない^^;;


 寒さもあったし、これ以上待っても夕暮れが濃くなるだけだしと思い帰ってきた。

前は百羽を数えたが今年は何羽飛来しているのだろう。

 



地震
このところ地震が頻発して心配だ。
早朝震度4に飛び起きた。

首都圏でも午後6時ごろ震度4の揺れがあったという。

冬の日に2012/11/28 19:10

 昨日仙台は昨年より4日遅れの初雪だった。
雪と言っても泉ケ岳から風に運ばれて来たようで 青空で明るく 雪はくるくると舞うように飛んでいた。

 今日の最高気温は10度に届かなかったが、風のない分温かく感じた。

 午前中は青空に雲が綺麗でボラへ行く為のバスを待つ間雲の形を楽しんだ。
 
 年配の女性と話をした。
こちらから聞いたのではないが大正12年生まれと知りびっくり。
 先輩とは思っていたがせいぜい5歳くらい上かと。
流れであなたは?と聞かれとっさのことで正直に12年生まれと答えたら、
 「あら?15歳も若いのね」に が~ん!^^;;

 15歳の差にも驚いたが、12年と答えた後間髪をいれずに答えを出したこと。
 こちらは「大正は15年だから」なんてモタモタしていたのに^^;;

 89歳と言えば戦中戦後の暮らしで辛酸を舐めた世代のはずなのに、苦労も血や肉とし、苦労をしたからこそ今の平和があると「感謝の言葉」を何度も言った。
 立派に年を重ねた人を見ると背中をどやされたように慌てる^^;;;;;

 一時ごろ帰宅して炬燵にすっぽりもぐりこんでテレビを見ていた。

 「ピンポーン」出ると、同じ町内の〇さんだった。珍しい。
 
 あれやこれやの話の中で〇さんは「主人が停年になってから私強くなったの」と言った。
 〇さんは控えめで夫を立てる良妻賢母型の人だ。ほほ~変身ですか^^。

 ご主人は「あなたと一緒になってよかったと思う。感謝している」と時々言われるそうだ。
 〇さんは何度言われても「私もあなたと一緒でよかった」とは答えない。
 「ねッ!私って意地悪でしょ!」
アハハハ・・・「今はまだその時ではないってことかしら」

 お二人はプールに揃って出掛ける仲良し夫婦。いいね~~